この夏の始めに伊勢参りをした。 20代の頃に遷宮があって新しい社を見に行った。実に30年ぶりである。 神宮の周辺の街並は随分と変わり、記憶を掘り起こしてもなかなか30年前のことが思い出せない。しかし、外宮に参拝したあと五十鈴川の橋を渡り、内宮に入ると、あざやかに風景が甦ってきた。 五十鈴川の澄んだ流れ、あたりいっぱいの大樹林の深い緑、砂利の音、早朝の参拝だったので、たまに人とすれ違うばかりで厳粛な静寂にどっぷりと身を置いた。社が建っているすぐの隣に同じ大きさの敷地がある。礎石と玉砂利だけの幾何学の空間である。そこに鳥達が遊んでいる。それだけで神々が漂っている気配を見た。 俺はかくも伊勢が心震えるとは思っていなかったが、再びの伊勢参りは充分に己の内にあるものを覚醒させてくれた。 そして、その満足の心を持って隣町の松阪で旧友に再会した。 その裕福な夫妻は我等を牛肉でその名を天下にとどろかせている「和田金」に招待してくれたのである。広い間口の玄関に入ると、二人の和服姿の女の人が我等を部屋に案内してくれる。広い和室中央にはすでに炭火が焚かれていた。二人の女の人は一人が肉を焼いたり、スキ焼鍋の案配をしてくれるベテランで、その後ろにひかえる一人はビール、酒など、飲物とその他の料理を運んでくれる。 従って、自分で焼いたり、具を鍋に入れたりという面倒が一切ないから、食・飲・話をたっぷり、途切れることなく楽しめるのである。 さて、どのように旨かったかといえば、小判をひとまわり大きくした厚さ2cmばかりの炭焼きの肉は、歯ぐきの弱った人でもゆっくりと深く噛むことのできるほどのやわらかさ、そこに過剰な肉汁や油味が、口の中にあふれることなく上品なうまみが広がるのである。次にひかえるスキ焼鍋は極上の霜降り肉を砂糖としょう油で煮上げるやり方で、肉・野菜・肉・野菜とふり分けながら、頃合いを見ながらベテランの仲居さんがていねいに鍋を作り上げていく。それらを生玉子の中にポンと入れて食べる。松阪の裕福は赤ワインを注文していたが、俺は地元で一番飲まれているという冷たい純米酒をあおった。 大枚をはたいても行ってみなさい。 和田金は充分に答えてくれます。 ただし、若者は行くべきではない。野性的な食欲を満たすところではない。分別のある年齢と減退した性欲を自覚する頃、人は味覚に遊ぶ。代わりの幸福を与えられるということです。 肉食三昧ですから、あと二つ肉食話があるのです。もう沢山だというくらい肉に包囲されてしまいました。 伊勢神宮と肉食は俺の中で炸裂しています。 三陸から生きたままのほや 菅平で見つけた純米酒3本 |