居酒屋文蔵

 この店は私の飲み屋稼業の原点であり、仕込みのワザをいただいた、たいへん恩のある店なのです。 山口瞳さんの小説に「居酒屋 兆冶」という小説があります。 そのモデルになった店で映画化され、主人役に高倉健、奥さん役に加藤登紀子というキャストで20年位前に随分と話題になった作品でした。 その頃、色々な作家や芸術家或いは文化人といはれる人達が訪れ、毎日毎日がたいへんなにぎわいでした。 だからと言って、文蔵さんはおごるでもなく、不器用に照れ臭そうにモツ焼きを焼いていました。 10人ばかりでいっぱいになってしまう店ですが今も健在です。
 その日、6時頃着きました。 まだ提灯も暖簾も出ていません。準備中としてありましたが中にはいりました。 暗い店の中で背中をまるめて仕込みをしていました。 いきなり誰だとばかりの表情でしたが、「伸ちゃん」 と確認するとニンマリ笑って迎えてくれました。 店の中はエアコンもなく昔の飲み屋はどこもこんな風だったんだろう と自分に言い聞かせながら仕込みの終わるのをまちました。
 モツ焼きと煮込み そのほか少々のツマミがあるが 中心は変わらずモツ焼きである。 客に愛想をいえる人ではないから、自然と背中を向けてしまう。それでも、店がつずいているのは文蔵さんのひたすらなる愚直のなせることだ。 そして、酒も変わらず飲み続けている。 体に色々不調があるとは言え そうしなければ客と接するのが大変と言う。 いずれにせよ、不器用、無愛想、無口 これは文蔵と言う店の拠って立つところである。
 たそがれている。 が 時代におもねることなく、自らのできること、自らの信じるところを素朴に生きる。 清貧なる商いをつづける店である。
 帰り際、 文蔵さんは私の手を両手でしっかり握りしめ 「伸ちゃん ありがとう」と うつむきかげんに挨拶をしてくれた。 国立の大学通りをひとり とぼとぼ歩きながら 又、来年も夏の暑い夜に文蔵にこよう。 そして、汗を流しながら酒を呑もう。 

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