ある日曜日の昼下がり、店の焼場をになって近頃そうとうに自信のついて来たナオコ嬢がふらりと立ち寄った。 「いいところに来たねぇ。これから下水のドブさらいをするところだったんだ。老人の足腰じゃたよりないから、ひとつ気合を入れて手伝ってよ!」 しめしめと思いながら俺のまわりにいる方々は実に人道的だなと安心した。 「何を言ってるのですか。今日は日曜日ですよ。休日サービス出勤なんていやです。ブラックです。」 と切り返してきたからやさしい口調で 「いや、ちょうどおいしいキムラヤのアンパンと、又々おいしい小岩井農場の牛乳をセットでお茶でもしながら気楽にのんびりやろうよ!」 「いつの時代のこと、今時の若いこがアンパンにつられてドブソウジなんてだれがするもんですか。私、これから生ハム造りに多摩センターの方の畑に行って来ます。」 少しのスキもみせないでナオコ嬢はキビスを返すことなく行ってしまった。 やっぱり魂胆は見やぶられ打ちくだかれるものなんだとすこしだけ反省した。 ひとり残されて 「生ハムか!」 とかつぶやいた。 40年の昔がゆるやかに浮んで来た。 国立で商売を始めた頃、全共闘的文化(そんなものはない)をいくらかにおわせる酒場や食堂は本物の酒と言っては純米酒、本物の野菜と言っては無農薬の米や野菜やみそなどを色々探し出してきては仲間と楽しみはじめた時代だ。 ある時、国立の西の方で、まだ美術大学を卒業して間もないあい染の女子研究者と知りあいになった。 こん色と黒い炭色をまぜ合わせたような決して美しくない藍の液体が風呂おけいっぱいにはられているのを見せられた。 これを布に染めぬいて着物や前掛けやのれんや手ぬぐいといったものに仕上げていくという話だ。 「話のついでで、これからその藍染の布で色々なものを作っているアトリエに行きましょ。」 今度は国立の南の方に向った。 二人の女の人がにこやかにむかえてくれた。 どこやらの異人さんのように瞳がキラリ、清楚な落着きは年齢のせいばかりではない、気持ちを引きしめた。 ワタナベタエさんという。 そして、もうひとりの方は陽気でチャーミングで肉体派で400米トラックをかけぬけるアスリートのようでもあった、アケミネアツコさん。 40年もむかしのことだからどんなこんななど記憶にないが藍染のことよりも4人で酒と食い物と農耕とそして生ハム造りに花が咲いたというぐらいが浮ぶ。 時がとんで、平成三十年、俺は古希をむかえた。 色々の祝いをいただき、心をくだいて下さった中に、岐阜県多治見の陽明庵 加藤直彦作 の酒盃をいただいた。 我まま無礼な酒場のオヤジにつかずはなれずして、まこと優雅な酒をたのしんでいただきありがたいそのご夫妻の贈物の酒盃を不覚にもなみなみと注いだ酒とともにすべり落してしまった。 酒盃は割れて7片のクズザンガイに果てた。 「ああー、どうしよう!」 言葉がないまま泣きベソをかいていると「金継ぎ」で再生できるかもとやさしくナオコ嬢が声をかけてくれた。 三か月後、酒盃は金色の幾何学的線描によって見事によみがえり、再び我がバンシャクをささえてくれることとなり、なによりもタツタ夫妻に顔向けができるゾとばかりに、又々卑しき面子心が顔をのぞかせる。 それにしても金継のワザは見事で、ショウコさんに不躾けながら、「謝礼」 をと口にしても、にこやかにこばまれた。 その日曜日の夕暮、ナオコ嬢は会心の出来栄えだゾと言わんばかりに糸にまかれた1本が500gぐらいの肉のかたまりのできたて生ハムをたからかにかざした。 香味野菜を煮込んでつけ込汁を作り、塩・コショーをすり込んだ肉をつけ込んで一週間ぐらい冷蔵庫にねかしておく。 ドラムカンのような空洞とフタがあり煙を調整できるようなものが必要である。 そして煙があたりにただよっても問題にならない広い空地があれば言うことなし。 「ショウコさんのお母さんの農地だから、そのワキに物置き小屋があって、そこでお弁当広げ、お茶のんで、タクアンかじってワイワイしてきた。」 ナオコ嬢やや興奮気味 「ワタナベさん知ってる? アケミネさん知ってる? ヨウコさん知ってる?」 国立の頃、40年前の話を矢継早に投げる。 割ってしまった酒ヅキから始まる。 ショウコさんという金継ぎ嬢、その金継ぎ嬢の母親がアケミネアツコさんという400米ランナー風自然農業家であり生ハムのエキスパート。 藍染めという手工業的な創作でつながった二人の姿がタエさんとヨウコさんだ。 いま甦った40年前のわずかばかりの映し絵。 人はどこでどのようにつながるのか。 そのつながりをつれて来たのは、いつも近くにはいるが、その時代にまだ生まれていなかった、気丈夫ナオコ嬢と金継ぎショウコ嬢だ。 感謝 感謝 悪事はできねぇなあー 2020.2.10 大澤 伸雄 |