元旦の昼時、風もなく心地よい冬の陽光にめぐまれてひとり墓まいりに出かけた。 新年の墓地はお盆、春と秋のお彼岸の次ににぎやかに人の集まるという。 死んだ家族それぞれの命日を忘れて認識していないとんでもない不躾者だから正月元旦の墓まいりは好都合だ。 ある時、親セキの世話好きのオジさんから 「ノブちゃん、ついでだから命日にお墓に行って草むしりとソウジして花もかざっといたよ」 なんて電話があった。 なのに俺ときたら、ありがたいねぇと感謝もしないで、そのサイクリングが趣味のオジさんに 「まさか、多摩墓地までこいで行ったんですか。」と返してしまった。 「花を持ってちゃあ自転車は無理だ。」とプツンと電話は切れた。 あーあ、またしても親セキのオジさんをおこらせて、またしても親セキ中に言い回されてコリツした偏屈者になってしまった。 お墓に来るたび、そのオジさんの顔が黒い墓石にうっすらと浮かびあがる。 まあいいや、新セキづき合いは俺の人生のごくわずかの領域のことだ。 修正はしないでほっておく。 目的は心をこめて死者を弔い敬う。 そして入念に墓をソウジすることなのだ。 きれいに整え、花を飾り、清らからしい自分の心をあまりおしつけないようにサッと墓に別れを告げた。 でもって自転車を走らせようとした瞬間、俺の眼の前でオバアさんが大胆に前かがみにころんだ。 オバアさんがころんだ事にびっくりして、すぐにまたびっくりしたのはそのオバアさんが知り合いで、家族のこと、連れ合いのこと、人となりまでに熟知という程ではないが昔からの知り合いだった。 「どうしてこんなところで!」 「私もお墓まいりで来たの。ダンナは用事があるからと言って先に私をおいて帰ってしまったのよ!」 と言う。 体の具合のようすからたいした打撲などない風だった。 二人で歩きだしたとたんオバアさんは語りだした。 たずねもしない家族話、生活話、墓まいりした亭主のグチ話、そして、藪から蛇とはこのことと無念しながら、俺についての若い頃の生意気ぶりを楽しそうに快活に語りだした。 俺は逃げだしたかった。このオイボレの元気なオバアさんから、と言っても俺もオイボレだ。 ほとんど同じ世代どうしだから、バス乗り場まで連れゆくのは人間としての崇高な行いであると決心した。 井上さんは極寒の地、北海道の旭川から単身、東京にやって来た。 着いた先が三鷹にあった和菓子やだった。 北の大地はその井上さんを厳しくきたえあげ、がまんする力を与えた。 平凡で何も持たない娘が生きるためにはコツコツと言われたことをこなし、無理難題に屈することなく日々を過ごすことを実践した。 そのガマン強い娘は幸運にも、その和菓子屋の若き跡取り息子の心をあてたのだ。 良く働き、気まわしの出来る嫁は店も家も上手に取り仕切り、時代の流れにそむかれることなく大きく成長して、あたりの商店街の中心的な店へと力をつけた。 「あんたって、若い頃ほんとうに生意気だったねぇ。よく商売が続けられてるよねぇ。」 こんな言い回しを平気で口にできてしまうのは商売を成功できた人間の自信というものかも知れないが、田舎者の小金持ちの教養のなさを露出していて嫌だなあと思う。 そして開店したばかりのバサラに来ては酒に酔っては大口をたたく癖を見抜いた。 ところが井上夫人の旦那という方はまこと静かなる、まったく嫌みの言わない誠実な人であった。 先代の店の創設者という方が夫婦そろって誠実で物静かな人だったというのを隣で野菜と肉を商っている人から聞いていた。 「なるほどねぇ、人間やっぱり氏、素性かねぇ。」 と俺はひとりがてんした。 ただ、井上夫人が40代半ばの頃にひとり息子に先立たれて、生きる意欲をなくし失意のどん底にあった時期を知っている。 ある夜に酒場で出会った。 ボロボロ涙を流し、とてもじゃないがその事情を承知している俺としてはほっておくわけにはいかぬと隣にすわった。 「泣いてどうなるものではないが、泣いてすむなら泣いて泣いて泣いてろ!」 と唄ってやったことがあった。 深い悲しみをいだき、ひとり息子の墓にもう出て来てゆっくり息子とともに泣いたり、笑ったり、毒づいたりしての時をすごしただろう。 井上夫人に正月の始まりの日に出会った縁とはどういうことなのだろう。 その摩訶不思議に唯々 空を見上げるばかりだ。 歩けるうちは墓にまいるゾ。 2020.1.元旦 大澤 伸雄 |