いつ過ぎるのか今年のツユは力強く雨雲をはこんで来る。 昨年の今頃は太陽がガンガン照り灼熱の夏だった。 ところが激しい夏がこない。 サーフィンのはじける夏がこない。 日焼と麦わら帽子の夏がこない。 緑の木々と雑草のおう盛な生命力はところかまわずおいしげり、庭の地面はいまいましい雑草におおわれ無残な姿かっこうになって手入れをする気にはとうていなれない。 やる気満々の草むしりの日曜日、その日も朝からやまずの雨だ。 「晴耕雨読ね! たっぷり読んで、たっぷり昼寝して、たっぷり飲んで、何んてすてきな日曜日だこと!」 皮肉たっぷりの女房のつぶやきが背後でひびいた。 西日本のあたりでうろついている強大な雨雲にくらべりゃあ、何程のものでもない。 ビニールかっぱと長ぐつにカマのいでたちでさっそうと庭に出た。 草むらにはいつくばり、草をむしり、庭木の勝手放題の乱雑ぶり、草木の破レン恥きわまりない暴力的豊穣に、もう半分意欲がうせている。 いや、男の意地だ。 地べたからおびただしい小さな虫がはい出てきたゾ。 蚊が耳元でうなりをあげて飛びかっている。 むせかえる緑の草むらの淫靡な匂い。 どこからかもれてしみ入ってくるのか雨のしずく。 それでも我を忘れて草むしりに没頭した。 乱雑な草木をむしり刈り取る暴力的爽快があった。 なっとくはしてないが少しは庭の姿をとりもどしたということにして雨具とカマをもどした。 わずか30分のことだ。 その日曜日は午後も雨がしとしとやむことはなかった。 「Sing in the Rain」だとひとりつぶやいた。 そのつぶやきに呼応したかのように耳につけたイヤフォーンが鳴りひびいた。 シナトラの男っぽい、イキな歌が鳴りひびいている。 「The girl from Ipanema」 もう50年以上のむかしに作られたアルバムだ。 50年前の俺には、その上品で優しく唄い上げるカルロス・ジョビンとフランク・シナトラを受け入れる上等な感性がなかった。 そればかりか「ピチブルめ!」と乱暴で低俗なコトバで背を向けていたのだ。 50年もたてば無知と低俗の己れの恥も、そぼ降る雨がいくらかでも落としてくれればいいなあと思いながら、雨の中を歩きながら聞きほれていた。 やさしい男の唄声が俺をつつみ、何にやら初老の男は上等な心と感性をいただいたような、おおいなる錯覚におちいった。 その頃の貧しい若者は老いなど考えない。 ひとりで生きられると思いあがり、色々な人生のやさしい情を考えられない愚か者であった。 それでも50年がたち、雨の中で草むしりをやっつけ、雨の中でカルロス・ジョビンとフランク・シナトラを聞きほれる奇妙な老人になった。 いずれ、この長雨のつゆも明けるだろう。 暑い暑い夏の最中でも「プチブルめ!」と毒づいていたこのやさしい、静かなアルバムをたのしみたい。 もちろん、かたわらにはモツ焼と芋焼酎のロックだ。 フランク・シナトラ and カルロス・ジョビン 2019.7.21 大澤 伸雄 |