先月の話のきっかけになったキクチ君は別の件で縁があった。 というのはキクチ君が勤めているハセガワ病院には、俺の友達のヒサシ君という男がお世話になっている。 ヒサシ君はその昔、小さな中華屋をやっていて、夜も遅くまで開いていたから俺も仕事の帰りしばしば立ち寄っていた。 ひとりで切りもりできるくらいの小さな店だから、居合わせた客はほとんどが顔見知りになり、アイサツをかわすようになる気のおける店であった。 肉やさい炒めなんかを食べながらビールや酒をのんでひと時をすごして帰る。そしてヒサシ君は人気者で女客にももてた。 ところがある時 その店に区画整理による立ち退き話がもち上がった。 もとより借物の店で しっかりした賃貸けいやくをしていなかった。 それでも そこの大家さんは立ち退き料と次のところでの開店の資金の足しにと少しばかりの現金を用意してヒサシ君に手渡した。 それがいけなかった。 次の開店のことなどすっかり忘れ 毎日を酒とバラの日々をすごした。 愛嬌があって はにかみ屋さんは女にもてる。 だが それまでである。 地道に身を固めるのを心配するような女が現われでもすれば そんな浪費はしなかったろうに、たちのきどころか忌まわしい転落が待っていた。 「キクチ君、どこの病院につとめているの?」 「ハセガワ病院って知っていますか?」 「えっ? その病院におせわになっている患者さんでヒサシ君知ってる。」 「ヒサシさん、僕 毎日 お世話してます。 ということで、かんたんに話しはつながった。 「それなら 明日にでも面会に来て下さい。」 と言われた。 「そうだね。」 と言ったけれど、俺はすでにハセガワ病院というアルコール依存症のための病院をたづねていた。 野川のほとりで周囲には林や草むらの広場があったりで、のんびりした環境のところだ。 ヒサシ君は野原のはしっこの電柱によりかかって タバコをふかしていた。 帽子を深くかぶっていたけど、その男がヒサシ君だとすぐにわかった。 ノッソリとした緩慢な動作、少し猫背であらぬかなたをみつめていた。 見つめるあらぬかなたには めずらしい2匹の白いヤギが草を食んでいた。 「めずらしいねぇ、ヤギがいるなんてねぇ」 と声をかけた。 ヒサシ君はたばこをふかしているだけで、驚いた風でもなく だまってむこうをながめているだけだった。 「大澤だよ。久しぶりだなぁ」 病院の生活のことや病気のことをたづねるのはさけた。 「中華屋やめちゃって 今は何んの仕事しているの」 と言ってみた。 何にも答えてくれない。 横顔をのぞいてみるけれど無表情だ。 俺もあらぬかなたに目をやるしかない。 二匹のヤギは居場所を変えてあいかわらず草を食んでいた。 「夜逃げ屋だよ」 と唐突に口をひらいた。 「夜逃げする奴の手伝いだよ。真夜中に部屋の荷物をはこび出すんだ。いい金になるんだ。」 しかし、それは嘘だった。 彼の肉体はボロボロで そこに立ってタバコをくゆらせているだけが精一杯だった。 それから俺は自分がだれだかわかるかを聞いてみたが、うつろな眼でみつめるだけだった。 今、現在の話が駄目なら過ぎ去りし日々に話しを変える手もあるが、ヒサシ君にはその今日という日の認識がうつろなのだ。 かなたの白い2匹のヤギに見入って再び深い無言の世界に沈んでしまった。 「又、来るからね!」 とは言えなかった。 酒をあつかうことをなりわいにしている者だから余計に思ってしまうのかも知れないが、酒によってこわれてしまった人間を見るのはつらい。 閉鎖病棟に入るほどではないにせよ、回復を願うには無理があった。 それにしても一年やそこらの時でこんなに変わるのである。 以前、吉祥寺の街中で会ったことがあった。 道の向うからグレンタイ的一行が四、五人のだらしない軍団をつくって歩いていた。 その中にヒサシ君がいるのを見逃さなかった。 「ずい分はなやかで、ゲンキじゃないか」 と言葉をかけたが、本気は 「ずい分ハデによっぱらってるじゃねぇか」だった。 上機嫌のヒサシ君は 「俺のシンユウだよ。 この男、こんどウェルター級のチャンピヨンになる男だ。」 と、自慢げにもちあげた。 もちろん中心にドンと立っているチャンピヨンは自信満々だ。 その男は ほんの一瞬であったがイレズミのハードパンチャーとして、プロボクシングの世界で有名になった。 「よろしく!」とデッカイ男がデッカイ手を出した。 その手は厚く、固く、ぶあつい岩のようだった。 そして乱暴ではあったが優しい握手であった。 たぶん その時のヒサシ君こそが絶頂であったのだろう。 以来、俺はハセガワ病院に行ってないが、昨日キクチ君がやって来て「ヒサシさんもう病院にいないですよ。」とおっしゃった。 よくなったからの退院ではない。 ヒサシ君は ゆっくりと ゆるやかに 消滅した。 酒と バラと イレズミとともに夢の中に消えた。 2018.9.10 大澤 伸雄 |