古稀の記

  十年前くらいかな。
 真夏のたそがれ時に、麦ワラ帽子をふかくかぶったおじいさんがフワーっとした仕草で店に入って来た。 その方は帽子を脱ぐとニッコリ笑みを浮かべながら「ここに座っていいかい」と言って俺が立っている目の前に座った。

 畑仕事のついでのようないでたちで白いタオルが首にかかっていた。
 酒は二杯、モツ焼きは3本、そう自分に決めているように、他のなにかを求める風ではなかった。

 「いい店だ。ムダな飾りがないがいい。」
 いでたちと語る言葉がずれている。 まっすぐな言葉でおしゃべりしているが、眼尻がゆるやかだから、こちらも少しもかまえない。

 まあ、どちらかの裕福な自適生活者なのだろうぐらいが俺の印象であった。
 その方は、わずか三十分余りの滞在で店を出た。立ち去りぎわに
「カウンターがいい。いい舞台を見させてもらったよ。うまかった。」
それだけを言い残して、夏の夕暮れ時の「寅さん」は消えた。

 おじいさんはタダ者ではないと直感した。
 そして、その直感は正しかった。
 一週間後、俺は街の古書店であてもなく書棚を眺めていた。
 「どんな左翼にも同意しない」といったようなタイトル、著者 西部邁(にしべススム)とあった。たちどこに西部邁の顔がうかんだ。同時に夏の夕暮れ時の寅さんの正体をつかんだ。


 合点した。精神の高揚にひとりニンマリした。
 若い頃、何冊もその人の本に触れていたから、その人の心の内に俺は詳しいんだ、と自分に自慢した。

 去り際の「うまかったよ」という一声が俺の内でわずかによみがえった。
 又、やって来るだろう。次は 誰か友を伴ってニコニコしながら入ってくるだろう。そんな甘い想いがかけめぐった。

 それから十年はたった。 先月、一月二十二日 朝刊の社会面の片隅に 西部邁 入水自殺とあった。 「ええっ!」とおどろき、「やっぱりなぁ」というため息。

 色々な人からの話から、あるいはこの本人から、死への予感はたっぷりあった。
 自裁死を実践したのだ。
 自らの死はいかように、自らの人生をさばき、自らの死を己の力で執り行う、たいへんな困難をとげたのです。
 生前、この人はこんなことを語っていた。
「入水自殺はすごい恐怖だ。その光景をくり返しくり返し自分でイメージする。すると次第に自分の頭の中が平気になっていく。」

 己の力がこの状況にあった時に、じっくり残っていなければ自裁死なるものを実行することはできない。この人はよき人生をきっちりと生きる究極の法則を自裁死に表現した。

 「生きていなきゃダメだ」
 「死んじゃもともこうもねぇ」

と人間、ふだんにふつうに口にする。
その通りだと思うが、母親の介護を五年やりとげたが、生命の尊厳という言葉が何度も俺の頭の中で空転しては虚しく泣いた。

 西部さんも最愛の妻(難病)を介護し、みとった方だ。
 ニヒリストと言われても人間の日常と労苦を当たり前のようにこなしていたのです。
 それは人間としての約束事であるから、おこたってはならぬ事なのです。
 母親のオムツの取りかえも食事の用意も、俺は母親が好きだったからというより、人間の約束事だったから終ることができたように思う。

 母親の思い出を想い、西部邁さんの自裁死に思いをめぐらせる時、西部邁さんが最愛のヒトを失って、あてどもなき虚しい時間をどのように暮らしていたのかを知りたい。

 私事でありますが明日(二月二十六日)で古稀(七十才)をむかえます。

 母親の介護生活とその死、西部邁さんの自裁死、そして幾千万の死がそこかしこに繰り返され、繰り広げられ、でもある瞬間、いきなりギャフンとふみつぶさせる死もある。

 古稀七十年の時間をふわりふわり回想しながら、ひとり酒にて酔おう。


                  平成三十年二月二十五日

                       大澤 伸雄

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