生きていりゃあ 誰だって苦しく、やるせなく、どうにもならない、いやになってしまう事情に直面する。 天変地異による災い。 人間社会にある幾千万の逃れられない事故。 何んでこんなことで思いつめるかねぇ、と自分自身の料簡の小さいことで悩んで 勝手に苦しがっている者もいる(俺のこと)。 「じゃあ、お前さんの苦悩言ってみろよ」 「苦悩といわれると高級でなければまずいよな」 「いや、苦悩に貴賤はないぞ、人類に貴賤がないように」 「金がないとか 女にもてないとか すぐに腹がへるとかは苦悩とはいえないよな」 「それは事実というんだよ、そして日常とも言うな。 たとえば お前さんが中東やアフリカから地中海を渡ってやって来る難民のために船を建造したいから、どうしても巨額の金が欲しいという。 そして苦悩しているというなら認めるが、きのうパチンコで6万円やられて くやしいというのは日常だな。 苦悩とは崇高なものだ。」 そうか、俺の苦悩は日常にして まったく意味のない悩みかもしれない。 店の品書とそのネダンを書くとき、ああ なんてなさけない字だ。 いつまでたっても上達のないあわれな字面。 書く度、書く度、直面する文字への愛と文字からの復讐。 美しさが欲しい、力強い文字への憧がれ、品格という俺にとっての永遠の無理難題、などなどが書かれた文字の個性になっている。 「品書きの字、大澤さんが書いたのですか。」と度々言われる。 でもじょうずですねとか きれいですねとか言われたことはない。 「個性的ですね」と言われなれてしまった。 どのような画面、場合でも、さしさわりのない無難な言い廻しだ。 だから俺もしばしば使う。 そのあたりを徘徊している野良猫にあったりすると「お前きたなねぇネコだなあ」とは決して言わない。 「お前、ずいぶん個性的なネコだなぁ」と言うことにしている。 するとネコも察してくれる。 俺をおだやかな眼でじーっと眺めてくれるのである。 じゃ個性的でない、反個性、没個性なる文字とはいかなるものよ、ということになる。 年に四回 、四季折々の書が届く。 高級和紙に記筆され、その書はきちんと折りたためられ、大きな封筒におさめられている。 受ると座して机の上に置き、よく研ぎ澄ました刀(この場合は牛刀)でもって一気に封筒の上部を切る。 高等な書をいただくと、どんなに自堕落を日常をくらしていようとも、その一瞬にして所作をととのえたい気分になる。 いつもだらしなく酒盃(さかづき)をゆらゆらさせている俺でもピタリと止まるのである。 高級和紙からただよう墨のにおい、筆の流れに加えられた強と弱の混然、やわらかく、やわらかく、そして細く静かに筆がやむ時、「俺ってこんな立派な人間じゃねぇぞ」と深くため息をつく。 それから又、何回も何回も読みつ、ながめつ、書の美しさ、書の力強さを堪能しつくしてとじる。 堂々たる書、優美なる画、二刀流を存分にあつかい、尚 自信満々の老境に大活躍であるS氏、婆娑羅にともる赤と白のチョウチンの文字、それこそがS氏による快作なのです。 とくと よくかみしめ ながめ ごらんあれ! そもそもが品書きの文字とS氏の書を同時に語ってはいけない。 身の丈にあったくらし、身の丈にあった文字、身の丈にあった格調、それを心得としろということでした。 2017.6.4 大澤 伸雄 |