えっ、まるで 即身仏じゃねぇか! 縁側に座って身動きひとつしないで父親は庭をながめていた。 その視線の先には 老いた松の盆栽があった。 樹齢は相当のものだが、すでに手入れをされなくなってて久しいから茫々に枝葉が伸びて恰好が乱れてしまっていた。 松は老いても伸びていくが父親には最早、それを手入れ丹精する気力もエネルギーも失われていたのだ。 即身仏はそれから三ヶ月後ぐらいに彼岸へと去った。 82歳であった。 俺は父親を嫌いではないが、確たる思いを抱いてないから格別の想いもない。 ところが先日、家を取り壊し、まっさらの土地にした。 更地にその松の盆栽が置き忘れられ、引き取り手もなくさびしげに放置されているのである。 俺もまた、即身仏のように身動きしないでその松をながめているではないか。 取りつかれているのではない。 ああ、憐れだなー。 誰からも心を寄せられていなかったのかなぁー。 嫌んなっちゃうなー。 松の盆栽は その日から俺の手で面倒みる事にした。 憐れということではない。 父親への郷愁なんかじゃねぇ。 義務なんてもんは少しもない。 意味なんかねぇ。 そうするしかねぇ行いが人間には背負わされているってことだ。 しょうがねぇーとしか言えねぇ。 そのうち、俺も家の植木に水やりをし、雑草を取ったり、枝葉にハサミを入れたりと、その姿はいつか見た即身仏の背中と同じなのか。 ふだんの人間は無用者として消え去っていくしかない。 大げさに喝采を浴びて去っていく者などいない。 いるとすればその人間は相当の嫌われ者だ。 年寄りが 3人 集まれば 相続と墓と「ケンコウ」が飲屋の風景だ。 おおむね無用者はよき者だが、しつこく去らぬ者はたいがいにしろというのが、現役で酒を飲んでいる者の静かな祈りだ。 “なれねぇが 即身仏ってなんだよ。” ってのが、俺の思いだ。 即身仏! 即身仏! 俺には 野たれ死の方が美しく思える。 |