ある腑抜け野郎の告白

 「カザルスの鳥の歌が聴きたいなぁ」と言ったら、その店の美しいマダムが「私も その曲好きです。」と言ってくれたんだ。
そして、僕にだけニコッと微笑んでくれたんだ。
「どんなタイプのコーヒーにしますか。」と聞くから、「おまかせします。」と言ったんだ。
そしたら 僕の大好きな少し酸味のあるやわらかな味のコーヒーを僕のためにいれてくれたんだ。
以来、僕は足しげく その店に行くようになり、マダムは僕のことを確実に認めて、気を使ってくれているのがわかったんだ。
あんまりにも おいしいコーヒーを僕のためにいれてくれるので、感謝の気持ちをこめて、あんまり高価ではないおみやげを持っていくこともあったな。 たとえば、どら焼とか串団子とか、そしたら とても おいしそうに少しだけ食べてくれた。 そして ニコッと例の微笑みをみせてくれたんだ。
マダムと僕は確実に心が通い合っているのがはっきりわかった。 心がたかぶって幸せな気分でいっぱいになった。

 恋に落ちるっていうのは こういうことなんだ と納得した。 だから次は串団子やどら焼きじゃなくて、もっと高価でエレガントは雰囲気になれるマロンなんとかというケーキにしてみようかと、これはうまくいく作戦だなと自分にうっとりしたんだ。
 次の密会の時は西洋菓子を食べてもらって、またニコッと例の微笑みをもらおう。 こうして僕らの関係は確かなものに成長していった。

 恋の予感は はずれなかった。 はじめて会ったときから、こういうふうになると思っていたんだ。

 人の恋路に水を差すけれど、お前のこういうふうって、どういうふうなんだ。
ただの大いなる勘違いで、恋だとか 予感とか 密会とか 串団子食べてくれたとか、相当お前イカレテるんじゃねぇか。 バカで 腑抜けで ひとりよがりも いい加減にしろ!!

 「何だか、僕を妬んでいるみたいで、みっともないですよ」ときた。

 まあ、いいや、ところで その美しいマダムのいる店ってのは どこの何ていう店なの?

 「荻窪にあるミニョン」と聞いて、驚いた。 そこは お前のような腑抜け野郎が行くような店ではない。 高貴な文化漂う クラッシック音楽の殿堂だぞ。

 知ってるか! あそこのスピーカーはタンノイだぞ! レコードにのせているカートリッジはオルトフォンだぞ! アンプは真空管アンプの最高峰のラックスマンだぞ!

 お前なんぞは 店の奥の片隅で鼻毛でも抜いてろってなもんだ。

 「ずいぶん乱暴ですね。 やっぱり僕のこと妬んでるんですね。」

 もう、それで俺は黙った。 ゆっくりとパブロ・カザルスの無伴奏チェロ組曲に心をあずけよう。


 2012年の年末は29日の営業が最終であります。
 2013年の新年は4日からの営業となります。

 2012年 ありがとうございました。 

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