夕方の5時頃、俺は三鷹の駅に降りた。 はじめての街だ。 のんびりとした街だ。 人々の様子がおだやかで、生まれ変わったら、こんな街で、まっとうに暮らせたらいいなあ。 と、ほんの少しだけ思った。 させ、俺の目的は、うまそうな店を探すことだ。 駅周辺を歩き回り、すぐに当たりをつけた。 何しろ、三鷹北口にはそれほど沢山の店がない。 出入り口に開放感があり、ほどよく活況している店がよい。 俺は婆娑羅という、なまいきな名前の店を選んだ。 縄のれんをくぐり、店の中に入ると沢山の客でにぎやかだ。 店の主人に指し示された席に着いた。 うまい具合に出入口のすぐ脇だ。 俺は生ビールと牛レバの刺身と煮込みを注文した。 可愛くて、元気で、かしこそうな女の子がニコニコしながら、俺の目の前にビールを置いてくれた。 ああ、俺がまともなら、こんな女の子と恋が出来たかもしれねぇなあ。 まあ、いいや! 冷たいビールがグイグイと喉に流れ込んでいく。 歯ごたえがたまらない牛レバをゆっくり噛みしめる。 「うまいなあ」と、しみじみ思う。 これが人々が味わっている一瞬一瞬の幸福というやつなのか。 まあ、いいや! 俺は人並みの幸福に酔いしれてはいけないのだ。 やわらかく煮込んだモツを口に運ぶ。 何といううまさだ。 鬼の心、孤独と裏切りの心が癒やされてしまう。 俺が俺でなくなるような腑抜けた野郎になり下がりそうだ。 うまい喰い物は危険だ。 俺ははたと我にかえり、当たりを見回した。 凡くらでお人好しな人間どもが楽しげに酒を飲んでいる。 無口で勤勉実直だけが取り柄のような店の主人。 それだけで気にくわねぇ! 何杯もビールを頼んだ。 飲むほどにこの店の平和が憎らしくなった。 俺は語り合う友もなく、親類縁者もなく、いや、かってはいた。 今は完全無欠の孤独だ。 その孤独と溶け合い、一心同体となった時、俺は深い幸福に酔う。 まさに、今がその時だ。 この飲み屋は素晴らしい。 俺は切断された、使用できない携帯電話を取り出し、耳にあてた。 と同時に、バイトの愛らしい女の子に目で合図を送った。 「外で電話して来ます。 すぐ戻ります。」 女の子は軽くうなずいてくれた。 まったく疑念を抱くことなく、俺を送り出してくれた。 俺はそのまま駅に向かった。 ごちそうさま。 本当にうまかったぜ。 俺はニンマリしながら心の中でつぶやいた。 堂々たる無銭飲食の完了である。 ≪追記≫ この喰い逃げが発覚したのは10分後でした。 次のお客さんが来た時、席を用意しなければならず、電話をかけに外に出た男を探したのですが、店の辺りには誰もいない。 お見事! 俺は男のあざやかな行いに感心した次第であります。 携帯を外で使う人を良識ある人と常々思っているからです。 |