“見よ、その父の深き心を”

 週末、土曜日の調布の魚市場は商売で魚を仕入れに来る人に混じって一般の人々の買物客もたくさん来る。 普段とは違う人達が見受けられる中、ひときわ趣の異なる親子があった。
 父親は、俺と同世代だろう。 だいぶ白髪が目につく。 しっかりと息子の手を握り、手をつないでいる。 一つ一つの魚の名前を言いながら、息子に一生懸命、語りかけている。
 「きれいなアジだなあ」
 「大きなイワシだなあ」
 「これは、イサキだ。 これからが旬だなあ。 焼いたらうまいぞ。 喰いたいか。」

 その息子はうつむきかげんに目を一点に定めて、父親の言葉に少しの反応もしなかった。 30歳を超えているであろうか、すでに身の丈は父親をはるかに超えている。 優しく、やわらかな表情であるのに、少しの動きもなかった。 心を閉ざしている静けさがその男の子を支配していた。 しかし、父親は快活で楽しそうだ。 まるで恋人の手を握りしめているように片時も手を離そうとしなかった。

 「俺はこいつが好きなんだ。 たまらなく好きなんだ。 どんなことがあったって、こいつを守ってやるんだ。」

 とばかりに、父親は無関心を装おう、世間と世界に対して深い愛情と誇りを表現しているようだった。

 それは、いつか見た光景としっかり重なった。
 ある年の夏の夕暮れ時、俺は国立の大学通りをひとり歩いていた。 すると、向こうから、大きな男と少し背の低い男が、手をつないでゆったりと歩いて来た。
 背の低い方の男は実に楽しげで、よく語りよく笑い、軽やかな身振り、手振りもあった。 近づいて来るにしたがって、俺は奇妙な気持ちになった。 男同士の奇妙なカップルを直視しなければいけないのかなあ!という・・・・・。

 そして、すれ違いざま俺はその二人をはっきりと確認した。 男同士の奇妙なカップルは作家の大江健三郎さんと息子の光君であった。
 その瞬間、深く優しい感動が俺を包んだ。
 息子の光君は知的障害を持って生まれた。 しばしば大江健三郎さんの作品に表現、姿を変え登場する。 そして成長し音楽作りの大家へと変貌したのである。

 一途な優しさ、父と子の静かで控えめな絆。 小さな小さな幸福の情景。
 そんなことに感動する心がまだ俺には残っていたか。

 聖人とはほど遠い世俗を生きる者に、このような父と息子はまぶしい。
 人間、この健気なる者を少しは真似てみよう。 世俗にどっぷりと暮らしているからこそ。

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